Banner-06-June.jpg

Japanese - Free Will

「自由意志」について 初代クリスチャンはどう考えていたのでしょう


初代クリスチャンは、自由意志説に対する強力な支持者でした。例えば、殉教者ユスティノスは、ローマ人にこう説いています。

「罰や懲らしめ、そして報いは、各人の行いの真価にしたがって与えられるということを、我々は、預言者達から学び、そしてそれが真実であるとみなしている。もし、そうでなく、万事が運命のなすところであるならば、我々の側でできることは、何もないという事になる。なぜなら、もし、ある人が善良で、別の人は邪悪ということが予定されて(predestined)いるとしたら、その場合、前者は賞賛に値しないし、後者を責めることもできない。

人間に、自由な選択により、悪を避け、善を選ぶ力がない限り、自分の行い――それがどんな行いであっても――に対する責任はない。なぜなら、もし、その人自身が善を選ぶのではなく、ただ、そうするように(神に)造られただけのことであったら、彼は報いや賞賛を受けるに値しない。同様に、たとえ、ある人が邪悪であっても、彼は刑罰を受けるに値しない。なぜなら、彼は、(悪人としての)自分にふさわしい悪事以外、何もすることができないのであり、みずから進んで悪人になったわけではないからである。」

クレメンスも同じ意見を述べています。

「もし、魂に、取捨選択する力がないならば、そして悪が、自由意志によらない、いやおうなしのものであるならば、賞賛も非難も、報酬も罰も、正当なものとはいえない。 数十年後の著述家アルケラオスも、同様の理解を示しています。

「お造りになった万物を、神は良きものとされた。そして神は各人に自由に意志する心をお与えになった。そして、それを基準として、神はまた、裁きの法を制定された…そして当然、誰でもそうしたいという意志を持つ者は、掟を守るであろう。

一方で、それらの掟を侮り、それとは正反対の方向へ逸脱する者も、依然として、この裁きの法に直面せざるをえないことは確かだ…各人が、適切な意志力を用い、どの方向でも自分の望む方へ、自分の進路を定めていくだろうことに疑いの余地はない。」

三世紀の末期に生きた、キリスト者であり殉教者であったメトディウスも同様に「『人間は自由意志を持たず、避けられない運命の必然に支配されている』、と考えている彼ら[異教徒]は、神が、あたかも人間悪の原因であり、悪を造った張本人であるかのように描き出すことによって、神ご自身に対して不敬の罪を犯しているのだ。」と書いています。

初代キリスト教徒は、この問題に関して、ただ単に自分の憶測に依っていたのではなく、以下に挙げるような聖句に、その確信の基を置いていました。 以下、その一部を列挙します。

・「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

・「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(2ペテロ3:9)。

・「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい(黙22:17)。

・「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう(申命記30:19)。

ですから、予定説を信じていたのは、元々クリスチャンではなく、異教世界の人々だったのです。

デイヴィッド・ベルソ-著 『初代キリスト教徒は語るー初代教会に照らして見た今日の福音主義教会』(原題:Will the Real Heretics Please Stand Up )より抜粋 初代クリスチャンが、「自由意志」や「予定説」についてどう考えていたのか、さらに詳しく知りたい方へ。以下の教材をおすすめします。