Banner-06-June.jpg

Japanese - A Dying Virtue

死にゆく貞節(A dying virtue)


女性の視点からみた、服装における慎み深さ (Modesty in dress from a woman's perspective)

ラウラ・クルヴィラ(Laura Kuruvilla)

2007年8月19日

(2014年6月 日本語訳)

今からおよそ10年ぐらい前になるでしょうか、友人をはじめとする若い女性たちの間で、スパゲティ・ストラップのタンクトップ(中のブラひもが外にまる見えになる型のタンクトップ)が流行るようになりました。

はじめてこれを目にした時、私は――母や祖母と同様――かなりギョッとしました。しかし、数年も経たないうちに、私の中でそういった気のとがめはいつしか消え去り、気がつくと、自分自身、そういうファッションをするようになっていました。

私と同世代の女性の多くもそうだと思いますが、自分がかつて人目にさらすべきじゃないと思っていた体の部分を露出しはじめたのです。

この実体験を通して言えるのは、いかに私たちの感覚がうつろいやすいものであるか、ということです。ほんの数年前まで、「なんなの、これ?!」「すごく変!」と思えていたものが、今では完全に当たり前、いやそれどころか魅力的なものにさえ映ってくるのです。

感覚におけるこういった種類の変化こそ、私たちが《慎み深さ》といったトピックを切りだす際の難点となるのです。

しかしそうではあっても聖書が――特に女性に対し――慎み深く身を装いなさいと命じておられるのは否定しようのない事実です。パウロはテモテにこう書いています。

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい」(Ⅰテモテ2:9-10)。

(もちろん、慎み深い服装は、男性にも必要です。しかし御霊の知恵に導かれ、この箇所でパウロはあえて女性に注意を向けているのです。というのも、この領域においては、女性の方がより罪を犯しやすい傾向にあるからなのです。)

しかし、この聖句を実際に適用していく上で、まずもって難しいのは、《慎み深さ》についての定義そのものにあると思います。

ある教会では、姉妹たちの《慎み深さ》を、足首丈のスカート、(体のラインのみえない)ゆったりした長袖の服と定義していました。

そうかと思えば、――ピタッと肌に密着したジーンズに、胸元のたっぷり開いた短いブラウス姿の若いクリスチャン女性が、聖書的《慎み深さ》について講義している――そんな姿もまた目にしてきました。

いえ、私は、後者の女性を揶揄するために書いているのではありません。そうではなく、あくまで、クリスチャン女性がどんな服を着るべきなのかという―《慎み深さにかんする実際的定義》は多岐にわたり、尚且つ、はっきりと捉えにくい性質のものでありうるということを申し上げたいのです。

それでは、「神を敬うと言っている女にふさわしい」というパウロの書いた言葉と調和するような《慎み深さの定義》――それをいったいどこから見い出してゆけばよいのでしょうか。

この世の差し出す定義はおそらく、

《慎み深さ》=巷で流行っている服装よりは挑発的でないもの、ないし主流のファッションの中ではもっとも露出度の低い選択

という風になると思います。

しかし、この定義にはクリスチャンにとって難点があります。というのも、この世は常に、より罪深い方向へと落ち込んでいっているからです。

パウロがいうように、悪人は「ますます悪に落ちて行く」―そんな「困難な時代」に私たちはいるのです。(Ⅱテモテ3:1,13)

自分自身の短い経験からもそれは証言できます。

高校三年生になった日の朝でしたが、始業式に行こうとする私を、両親は玄関前に立たせ、写真を撮ってくれました。その時の写真をみると、私はゆったりした長ズボンに、インナーシャツ、その上にはボタン掛けのブラウスを着ています。

さて、それから時を進めること6年。――恥ずかしい話ですが、その当時の私の洋服ダンスは、肌にピタッと密着したジーンズにタイトなブラウスだらけでした。

そして、そのどちらの場合(高三の時にしても院生時代にしても)、私はただ単にその当時のファッション流行を追っていただけなのです。つまり、聖書的な用語でいえば「この世と調子を合わせていた」のです。(ローマ12:2)

さてここで過去十年における、女性のファッション動向について少し概観してみたいと思います。

ジーンズは年を追うごとに、よりタイトで丈低なデザインになってきています。現に若者や中年の顧客を対象にした主流大型チェーン店では、タイト過ぎないブラウスを見つけるほうがむしろ難しくなってきているといえます。この世が―少なくても過去十年間に―よりタイトで、より露出度の高い(女性用)服を受け入れてきたということは明白です。

ファッション・トレンド、およびそれにともなう「許容範囲にある服装」、「慎み深い服装」、「挑発的な服装」といった社会的な定義付けは、時代と共に変化していっているのです。

しかし、神のみことば、ならびに神の基準は、もちろん不変です。残念なことに、一般的に教会はこれまで、この世に追従してきました。――ファッションの分野においては特にそうです。

フランシス・シェーファーは、かつてこのように言いました。

「今日、世間が何と言っているか私に言ってごらん。そしたら、今後7年のうちに、教会が何と言うようになるか僕が当ててみせるから。 」

悲しいことですが、こと服装やファッションの分野においては、シェーファーの言葉はまさしく真実を語っているといわざるをえません。

それでは、神のみことばに立ち、神に受け入れられることは何かを見い出すべく、私たちはどのように《慎み深さ》を定義してゆけばよいのでしょうか。どこから始めてゆけばよいのでしょうか。

そうするためには、まずファッション史を振り返ってみる必要があるでしょう。

歴史をみると、皮膚の露出というのは実のところ、比較的最近の現象であることがわかります。古代から第一次世界大戦前まで、女性のスカートは床に届くほどの長さであり、露出している部分というのはくるぶしから下の部分に過ぎませんでした。実際、1920年代半ばになってはじめて、ふくろはぎまで露出したスカートが導入され始めたのです 。

もちろん聖書を解釈する上で、歴史が最終決定権をもっているわけではありませんが、過去何十世紀という歳月を脈々と生き続けてきた知恵に、私たちは何らかの手掛かりを得ることができるのではないでしょうか。

その知恵とはつまり〈足は露出せずおおうべきである〉という先人たちの一致した見解のことです。

ナンシー・レイ・デ・モスは《慎み深さ》にかんする講義の中で、日々の自己診断としても有用な、以下のような鋭い質問を投げかけています。

「もし今朝、主が私に服を着せてくださるとしたら、私はどんな服を着ているだろう?」

男性を性的に誘惑するような服装を、イエスさまがおゆるしにはならないということはマタイ5章からも明らかです。イエスはこう教えておられます。

「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」(マタイ5:27―29)。

この箇所は、主に男性に対して語られているのだと私たちは考えがちです。というのも、女性が、通りすがりの見知らぬ人に情欲を抱くなどということはあまり考えられないからです。しかしここには、女性のための教訓(知恵)も含まれているのです。

まず、第一に、男性というのは肉体的な接触なくして、ただ単に(女性を)見るだけでも情欲を抱くことがある、ということをイエスさまはここで明示しておられます。

ですからわたしたち女性は―たといそれが私たちの個人的傾向とは異なるとしても(いや、むしろ異なっているからこそ)、このことをしっかり心に留める必要があります。

二番目に、罪はたいてい、二つ一組(ペアー)でやってくるということも覚えておくのが賢明だと思います。

ですから、もし女性を見て情欲を抱く傾向が男性の側で、より強いのでしたら、逆に、女性の側では、自分の肉体的美しさ(のとりこになっている、とまではいかなくても)、自分の外見を過剰に意識し、虚栄に走りやすい傾向がより強いということです。

さらにいうなら、マタイ5章27節の対(つい)となる聖句がマタイ18章にあり、それは女性の側に適用されるべきものなのです。

イエスはこう言われました。

「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。

片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。

片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」(マタイ18:7‐9)

イエスによれば、男性が女性に情欲を抱くことが罪であると同様―性的に挑発するような服、話し方、もしくは行ないによって―女性が男性を誘惑することも同じように罪なのです。

サタンはどんなにか嬉々として、この罪のペアーを用い、地上におけるキリストのからだである教会を攻撃していることでしょうか!

サタンは私たちに慎み深くあるべきだということを忘れさせ、―「ファッショナブルで魅力ある女性に思われたい」という私たちの罪深い願望を満足させるべく―《慎み深さ》に関するいいかげんで世俗的な定義を受け入れるよう、女性を、なかでもクリスチャン女性を誘惑してきました。

そしてこのように女性を誘惑することで、敵(サタン)はすでに男性に対する勝利をも確実にわがものにしたのです。

もしイエスが、情欲を抱いている男性に向かって、「つまずきをあたえるその目をえぐり出しなさい」とおっしゃっているのだとしたら、女性に対しても、「あなたのプライド、そしてこの世から(性的に)魅力的な人だと思われたいという願望を除き去りなさい」と要求しておられないでしょうか。

でも誤解しないでください。これは美に対する批判ではないのです。

現に神ご自身が女性のからだをお造りになりましたし、みことばは、女性の長い髪は女の光栄である(1コリント11章)と言っています。主権者なる主および主のみことばは、女性の美について無知をきめこんでいるわけでもなく、それをさげすんでいるのでもありません。

ここで主が―主に従う者だと告白している―クリスチャン女性に求めておられるのは、「その美しさを適切な形で外にあらわしなさい」、つまり「世の面前にあっては慎み深く身を装い、性的な魅力は夫のためにとっておきなさい」ということなのです。

鏡の前に立ち、「主は毎朝、どのような服を私に着せてくださるのだろう」と考えてみようではありませんか。

というのも、やがてある日、私たちは主の前に立ち―自分の不注意もしくはプライドを満足させようという自己本位ゆえに―、なぜあの男性この男性に罪を犯させたのかについて申し開きをすることになるからです。(これらの男性のためにもキリストは死んでくださったのです。)

こういった言葉は私自身にとっても反省をうながすものです。といいますのも、神は私をあわれんでくださり、(私の持っている洋服のいくつかを指して)「こういう服はわたしの娘には選ばないよ、ふさわしくないよ」と今に至るまで定期的に教えてくださっているからです。その一例として、今流行りの女性用タイトパンツなどが挙げられます。

自分に正直にこのことを考えてみますと、タイトなジーンズがゆったりしたジーンズよりも心地よいとか実用的だとかいうことは、お世辞にも言えないはずです。

そうです、タイト・ジーンズはつまるところ、ゆったり型より性的に魅惑するところ大なのです。体にぴったり密着したタイトなブラウスについても同じことがいえます。こういったブラウスも心地よさのためではなく、体のラインを余すところなく見せましょう、という目的でデザインしてあるのです。

その他、透き通った素材、スパゲティ・ストラップ、短パン、丈の短い服やスカートなども同様に検討されるべきでしょう。

主はこのように私に示してくださったのですが、当初の私は、それに抗っていました。「だって外は暑いじゃないですか」というのが私の答えであり、ひざ上丈のミニスカート、そでなしブラウスを正当化する私の理由でした。

でも、短パンや丈の短いスカートはほんとうに、麻のロングスカートより涼しいのでしょうか?「そうだ」とお答えになる方がいらっしゃるかもしれません。

でもたとえそうだとしても、少なくとも主への従順そして兄弟たちへの配慮から、自分の快適さを少々犠牲にしてでも慎ましく身を装うべきではないでしょうか。また、水着の類はどうでしょう。《慎み深い》といえるでしょうか。私にはそう思えません。

私はこういった考察を、ひとりよがりな思いで語ったわけではありません。

というのも、服装のことでは私自身、これまで大いに罪を犯してきたからです。感謝なことに、主は私をあわれんでくださり、この領域において、忍耐をもって私に教え、ひとつひとつ示してくださいました。

ですから、このエッセーがクリスチャンの姉妹の誰かの助けになるなら――永遠につながる助けになるなら――という切なる希望を胸に執筆いたしました。

このエッセーが神の栄光のために用いられますように。

ラウラ・クルヴィラ(Laura Kuruvilla)

Quoted in Elisabeth Elliott, "The Essence of Femininity: A Personal Perspective," Recovering Biblical Manhood and Womanhood, eds. John Piper and Wayne Grudem. 

Michael Batterby, Mirror, Mirror: A Social History of Fashion, (New York: Holt, Rinehart and Winston, 1977) 278, 296.