Japanese - Dukhobors and Molokans
ドゥホボール派とモロカン派
―ロシアにおける霊的キリスト教共同体―
ピーター・フーバー(Peter Hoover)著 The Russians’ Secret より
《旧教徒》(=スタロヴェール)が、ロシアの遠隔地や南部にあらわれたネムツィー居留地に拡がっていった一方、中央そして、タンボフ、ヴォロネジ、モスクワ周辺の、もっとも人口の密集している地域では、《霊的クリスチャン》(=ドゥホボール派やモロカン派)が数を増していきました。《旧教徒》と同じように、彼らはキリストの御名を呼び、モラビア派、フッター派、メノナイト派の中の、キリストを愛する人々と同様、主との歩みは彼らをして、主の教えに真剣に従う者にさしめました。
タンボフ出身の毛織物商人、イラリオン・ポビロヒンは、1600年代後半、《霊的クリスチャン》の指導者となりました。彼は多読家で、また自分の大家族をよく治めていました。彼はシベリア捕囚となりましたが、死の直前にこのように書いています。
真剣でありなさい。神に信頼をおきなさい。心を尽くして神を愛しなさい。主の聖なる集会の益のために精力的に働きなさい。尊敬をもって、主の全ての掟に従いなさい。徳の道にすすみなさい。あなたをとりこにするような悪習慣を避けなさい。鋭敏でありなさい。すべてのことを、やがて死後にくることに照らした上で、行ないなさい。
機会を逃さずに、善を行ないなさい。新しいことを始めようとする前に、よくよく熟考しなさい。あわてて決定をくだしてはならない。義務を果たすことにおいては、迅速でありなさい。耳にすることを全部うのみにしてはならない。自分の知っていることを一切合際、他人にしゃべろうとしてはならず、必要なことだけを話すようにしなさい。
何かに関して確信がないのなら、それを肯定することも、否定することもしてはならない。それについてよくよく調べなさい。そうすれば、あなたは慎重な者となるだろう。節度のある態度をとりなさい。お腹がすいていない限り、食べてはいけない。またのどが渇いていない限り、飲んではならない。そしてたとえ飲むにしても、少量飲みなさい。地獄を避けるように、アルコールを避けなさい。不節制は病のもとである。そして病はやがて死をもたらす。不必要なものを控える人は、健全ですこやかな生涯を送ることができる。
高慢にならず、柔和でありなさい。しゃべりすぎるよりは、むしろ沈黙を保ちなさい。誰かが話している時は、聞きなさい。誰かがあなたに話している時は、よく注意して聞きなさい。誰かがあなたに命令を下す時は、それを実行しなさい。自慢してはならない。かたくなであってはならない。また、短気であっても、うぬぼれてもいけない。全ての人に対して親切な態度を示しなさい。しかし、誰に対してもおべっかを使ってはならない。
公正でありなさい。他の人の物をほしがってはならない。盗まず、必要な全てを作りだすべく、勤勉に働きなさい。貧困に陥った時には、助けを求めなさい。そしてもし助けが与えられたなら、それを受け取り、感謝しなさい。しかし借りた物は返しなさい。また、約束したことは何でも、それを果たしなさい。
勇敢であり、いつも働く用意がなければならない。怠惰やなまけ心を駆逐しなさい。もし何か仕事を始めるなら、まず費用を算出した上で、その後は、あきらめることなく、やり通しなさい。苦難の中にあって、心くじけてはならない。経済的繁栄があなたを堕落させることのないようにしなさい。つましくありなさい。忍耐をやめてしまった人々に起こっていることをよくみなさい。彼らは不幸と悲しみの中に置かれている。意気地のない者は、ため息をつき、嘆き、忍耐強い者がつぶやかずに耐え忍んでいる事に関しても嘆き悲しんでいる。全ての人に対して寛容かつ親切でありなさい。
あなたに求めてくる者には与えなさい。あなたに何か与える物がある限り、貧しい人々を助けなさい。もし誰かがあなたを傷つけたのなら、その人を許してあげなさい。もしあなたが誰かを傷つけたのなら、和解を求めなさい。にがにがしい思いを抱いてはならない。罪びとを許してあげなさい。平和をつくる者にその働きをさせなさい。もし同胞を愛するなら、あなたも愛されるであろう。人に会ったら、あいさつをしなさい。あいさつを受けたら、あなたもあいさつを返しなさい。あなたに質問をしてくる人には答えてあげなさい。助言を求めてくる者には、それを与えてあげなさい。悲しんでいる者をなぐさめなさい。ねたんではならない。全ての人が幸せであるように願いなさい。
あなたの能力に応じて、全ての人々に仕えなさい。もし人に対してひたすら善を行なうのなら、あなたの友人はあなたを愛すようになるだろうし、敵にしたところで、なにか理由をつけてあなたを憎むことなどできなくなるだろう。いつも真理を語りなさい。これを実行しなさい。そうすれば、あなたは幸いな者となるだろう。
神に栄光あれ!
イラリオンの娘婿であるセムヨン・ウクレヨンは、巡回仕立屋として働いていました。旅をしながら、彼は多くの人にキリストを宣べ伝えました。ある時などは、大きな一群の人々と共に、彼はタンボフ市に行き、全ての市民に公然と悔い改めを呼びかけました。イサヤ・キリロフという熱心な指導者もいましたが、彼は福音書を読み、人々に教えました。こういった人々の働きの結果、1700年代には、《霊的クリスチャン》の大きな「地下」共同体がいくつも形成されました。
キリストにたちかえって
メノナイト派のクリスチャンがロシアに来て12年後、《霊的クリスチャン》もまた、南部の大平野に移住しはじめました。彼らは、――メノナイト派最大の居留地となったモロフナの真向かいに――ボグダノヴカ(=《神の贈り物》の意)、スパスコイェ(=《救い》)、トロイツコイェ(=《三位一体》)、テルペンイェ(=《忍耐》)、タンボフカ、ロディアノフカ、イェフレモフカ、ゴレロイェ、キリロフカ等、黒海の南部の方に自ら共同体を築き上げていきました。
「《霊的クリスチャン》の叫びは、キリストに立ち返ることだった」と、1800年代に彼らを訪問した学者は記しています。彼らは、山上の垂訓に従って生き、12の徳を非常に重んじていました。
すなわち、1)死から私たちを解放してくれる「真理」、2)神のもとに私たちを導く「純潔」、3)神のおられるところ、すなわち「愛」、4)体と魂の益となる「労働」、5)救いへの最短の道としての「従順」、6)努力せずして私たちに恵みをもたらす、「人を裁かない」という態度、7)最高の徳としての、「道理にかなったあり方」、8)サタン自身が恐れおののいている、「憐れみ」、9)キリストの働きであられる、「自制」、10)神と私たちを結び合わせてくれる「祈りと断食」、11)キリストの最高の掟である「悔い改め」、12)神と天使を喜ばせる、「感謝」――でした。
キリストにあって平等
《霊的クリスチャン》のキリストに対する従順がもっとも顕著に表れていたのは、他でもない『お互いに対する関係』においてでした。キリストにあって、彼らは、他の人を上から支配することに反対していました。
そしてこう説いていました。「神の霊が人のうちに生きておられる。神は、御霊を離れたところに、何か別個の存在ないし御臨在の場を持しておられるのではない。それゆえ、全ての人は、――貧豊、従僕・主人、身分の上下にかかわらず――、皆、同等の尊敬を受けるに値するのである。全ての人は、罪を犯し、救い主を必要としている。キリストがそうされたように、私たちもこういった全ての人々に仕えていかなければならない。」
こういった態度によって、彼らは、メノナイト派の隣人だけではなく、正教徒、旧信者、アルメニア人のうちにあって敬虔な人々とも――さらには、触れ合う機会のあったトルコ人やタタール人とも――良い関係を持っていました。
(真理や救いに至る)道は、自分たちだけの専有物ではないと、《霊的クリスチャン》は信じていました。つまり、心においてキリストに従う人はすべて、――彼らが言葉でもって、あるいは知識の上でキリストを知っているかいないかに関わりなく――、救われると信じていたのです。19世紀に生きた、一人のメンバーは次のように書き記しています。
教会とは、神がこの世の社会から聖別された全ての人々から成っている。これらの選ばれし者たちは、何か特別な象徴などで特徴づけられているのではなく、また、特定の教理や礼拝方式をもつ、特定の教派のうちにまとまっている訳でもない。
そうではなく、神の子どもたちは、世界中に散らばっており、またあらゆる信条告白をする教派の人々のうちに見出される、、、教会とは、神ご自身によって選びだされし共同体である。そしてこれは普遍的であり、外面的に統一された信条を有していない、、、私たちは聖書を読むときに、それを内的かつ霊的なものを表すものとして理解しなければならない。そしてキリストが私たちのうちに住んでおられる限りにおいて、私たちは御言葉を理解することができるのである。
こういった平等と恵みを重んじる環境に育った《霊的クリスチャン》の子どもたちは、長老たちに敬意を示しつつも、特別な肩書名を使うことはありませんでした。これらの共同体に住む人々は皆、「全ての人間に宿る、計り知れないほど尊い、神のかたち」に向かっておじぎをしつつ、お互いにあいさつを交わしました。1800年代に彼らを訪れたある女性はこう書いています。
80歳の老人と10歳の男の子がお互いに「ステパ」「ヴィクトルーシカ」「「ルーシャ」「ダーシャ」、、、等、愛称で呼びあっている光景を想像できるでしょうか。そう、彼らはまさしくそうしているのです。父親、母親、妻、夫、兄弟、姉妹、あらゆる年齢層の子どもたち、そしてよそ者でさえも、お互いのことをファースト・ネームで呼び合っているのです、、、それで最初、私は、誰が誰とどういうつながりがあるのか全く分かりませんでした。そしてそうでありながらも、彼らはまた、お互いを敬っているのです――若い人は老人に対して、老人は若い人に対して、男性は女性に、女性は男性に対して――です。男性は、自分たちが女性に許可していないような自由を、自分(=男性)のものとするようなことはしていません。
《霊的クリスチャン》は全ての人を敬っていましたが、クウェーカー教徒と同じように、脱帽行為は頑として退けていました。