Japanese - Tertullian
テルトゥリアヌス
神のために立ち上がった論争家
テルトゥリアヌスは北アフリカのカルタゴ市にて、紀元150年頃生まれました。両親共に異教徒で、父親は百人隊長でした。テルトゥリアヌスは徹底したローマ・ギリシア的教育を受けて育ち、回心前には法律業を営んでいたとされています。また30代から40代になるまで、彼はキリスト教の信仰を持っていなかったということが、著述からうかがえます。
しかし、一度人生をキリストに明け渡すや、テルトゥリアヌスは何をもはばかりませんでした。パウロのように、彼は、自分の学歴や社会的地位を、「キリストのうちにあること――それに比べたら、それらはみな、《ちりあくた》にすぎない」とみていました。同時に、彼は自分の博学な知識をキリストのために用いました。命を失う危険を冒しつつ、彼はローマ人に宛てた著述をいくつか執筆しました。その中で、彼はキリスト教を擁護し、さらに無分別な迫害をやめるよう、ローマ当局を説得しようと試みました。
テルトゥリアヌスは全身全霊をもって、キリストへの奉仕のために自らを捧げ切っていました。彼はカルタゴで長老として奉仕していたと思われます。また、彼はローマ人に宛てた護教作品だけでなく、――さまざまな異端諸派に対し、正統的なキリスト教を擁護する著述を、かなりの数したためました。また、当時教会にひろがりつつあった霊的たるみに対し、それを叱責する著述も書いています。
新約聖書はギリシア語で書かれており、テルトゥリアヌスの頃までは、ほとんどすべてのキリスト教作品もそれと同様、ギリシア語でした。テルトゥリアヌス自身もギリシア語に堪能で、ギリシア語でいくつか作品も書いていますが、ほとんどの作品を彼はラテン語で執筆しました。――当時、数において増える一方であった、ラテン語しか分からない西洋のクリスチャンの益とならんことを願っていたからです。
その結果、テルトゥリアヌスはしばし、それ以前には主にギリシア語でしか表記されていなかった聖書的真理――それらをラテン語で表記すべく、新しい術語を生み出す必要に迫られました。彼の作りだした新用語の中でもっとも有名なものは、「三位一体」という言葉でしょう。この言葉は、キリスト教用語の中での定番となりました。
彼の熱情的な性格、および強烈な信念ゆえ、テルトゥリアヌスの作品のほとんどは、論争的性格を帯びています。教会史家のフィリップ・シャフは彼についてこのように言っています。「彼は、谷を流れる静かで透明な川というよりも、ザ―ザ―と泡立つ山間の激流にたとえることができよう。彼の激しい性格は――彼自身懸命に、それをなんとかしようともがいていたのだが――、決して完全には治まることがなかった。彼は強い確信に満ちた人で、誰をも恐れることなく、また媚びへつらうことなく、それらを大胆に表現してはばからなかった、、、彼の論争は、どこにおいても、血の痕跡を残した。彼が異邦人によって殺されたり、カトリック教会から破門されたりしなかったのはまことに不思議であるといわねばならない。」[Philip Schaff, History of the Christian Church, vol. 2 (Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans, 1910), pp. 822-824).
テルトゥリアヌスの護教作品は、ニケア公会議以前に生み出された、最も有名な本の一つです。その中で、彼はローマの支配者たちに対するキリスト教護教に健筆をふるっています。