Banner-06-June.jpg

Japanese - Origen

オリゲネス


アレクサンドリアにいたクレメンスの教え子たちの中に、オリゲネスという俊英な十代の若者がいました。彼はキリスト信者の家庭で育ちました。

オリゲネスが17歳の時、アレクサンドリアで激しい迫害が勃発し、父が投獄されます。彼は獄にいる父親に手紙を書き、「信仰にとどまり続けるよう、家族を想う親心にほだされてキリストを否むことのないよう」、励ましました。父の裁判の日程が決まると、オリゲネスは自分も出頭して裁判で父の傍らに立ち、父と共に死のう、と意を決します。しかし、裁判の前夜、まだオリゲネスが眠っている間に、母親は、翌朝の裁判に息子が出かけられないよう、彼の衣類をすべて隠してしまいました。

当時の荒れ狂う迫害の嵐の中にあって、同胞信者を優しくいたわるオリゲネスは、弱冠17歳ではあったにもかかわらず、アレクサンドリアの教会でもひときわ目立った存在となっていました。猛り狂った暴徒は、そんな彼の慈愛に満ちた行いを目の敵とし、彼は、迫害の中をかろうじて生き延びました。

オリゲネスは、父から文法とギリシア文学の手ほどきを受けていたこともあって、幼い妹弟たちを養うため、個人教授の仕事を始めました。彼の英才ぶりは抜きん出ていたため、異教徒の父兄たちの多くが、子弟をオリゲネスのもとに送り出すようになりました。そして、結果として、オリゲネスの証しを聞いた多くの若い子弟たちがキリスト信者になりました。

一方、初信者を訓育する教師として責任者の立場にあったクレメンスは、生命の危険にさらされていました。異教の役人たちから彼は目をつけられていたのです。そんな中、クレメンスは奉仕を続けるために、他の市に逃げることを余儀なくされました。ここで、普通では考えられないような処置がとられます。アレクサンドリアの長老たちは、当時まだ18歳だったオリゲネスを、クレメンスに代わる訓練学校長として任命したのです。

実際、彼らの人選は賢明でした。オリゲネスは、それこそ心血を注いで任務に当たり始めたのです。彼は文法と文学の教師としての短いキャリア生活に終止符を打ち、ギリシア語の文芸書を全部、他の人に掛け売りしました。そして月々のわずかな掛け売り金で、やっと生計を立てました。キリスト教の教師としての奉仕活動からは一切報酬を受けることを拒みました。そして、日中はずっと初信者に教えつづけ、夜は遅くまで聖書の研究にいそしんだのです。

たちまちのうちに、オリゲネスは当世最高の、キリスト教の名教師の一人になりました。やがて彼は、聖書の各巻を一節ごとに釈義してくれるよう、友人たちから連続講義の要請を受けるようになります。友人たちは講義メモをとる筆記者を雇い、ここに、「キリスト信者によって書かれた、史上初の聖書注解書」が生まれたのです。もっともオリゲネス自身は、「自分の注解が、教義上の見解として受け取られるべき」、とは考えていませんでした。実際、彼は、ひんぱんに本筋からはずれたり、個人的推測で語ったりしています。また、注解書からは、彼のやさしい、柔軟な性格が伝わってきます。

しばし彼の考察は、次のような言葉で締めくくられています。「まあ、この聖句に関しては、ここまでが自分の理解できる精一杯のところだ。おそらく、もっと洞察力のある他の誰かが、よりよい説明をしてくれるだろう。」 オリゲネスは時に、初代教会の思想を反映しているとはいえない、正統的でない見解も述べているため、彼からの引用には少々注意を払う必要があります。

そういったかなり独自の見解があることを差し引いても、オリゲネスは、その時代――キリスト信者の中でも、異教徒の中でも――、抜群の知性の持ち主の一人でした。彼は、ローマ皇帝の一人と、個人的な手紙のやり取りさえしていました。一方で、その名声ゆえ、彼はキリスト教に敵対する者たちからも目をつけられることになり、幾度となく、迫害を逃れるため、新しい町へ移ることを余儀なくされました。にもかかわらず、彼は70歳まで生き延びることができました。

しかし、ついにその年、捕えられ、拷問にかけられました。どんなに拷問を加えられても、彼はイエスを否まず、ついに、拷問者たちが、激怒の末、あきらめたほどでした。しかしながら、オリゲネスは彼らの残酷な仕打ちがもとで、ついに命を落とすことになりました。